西行花伝をようやく読み終わりました。
大作をちまちまと通勤電車で読んでいたもので意外と時間がかかりました。
その間ずっと西行法師とお付き合いしていたようなものなので、
最後はやはり、一抹の淋しさのようなものがありました。
しかし、この先も西行法師とは長いお付き合いになるような気もします。
少しずつ、この人の作った歌なども理解していきたいなあ。
これだけの大作について、限られたスペースで語ることは
とても不可能なのですが、最も強く感じた感想を、ごく簡単にご紹介します。
願わくは 花のしたにて 春死なん
そのきさらぎの 望月の頃
(ああ、ここ↑だけこのブログを縦書き表示したい!)
これは、西行の最も有名な歌の一つです。ご存知の方も多いと思います。
この歌を最初に知ったときに、その意味を深くは理解しないまま、
何とすごい歌だろう、と強く心を揺さぶられたものです。
自らの死について語りながら、なんとおおらかで、豊かで、
そして突き抜けたような明るさを感じさせる歌だろう、と。
それ以来、桜の季節になるとふとこの歌を思い出したりしていました。
今回、この本を読んで、私はこの歌に初めて触れたときの感想が、
より強く増幅されるのを感じました。
まさに(この本の中の)西行は、この歌のように、おおらかに、豊かに、
明るく生きた人でした。
出家しながらも現世を棄てるのではなく、
現世の喜びも哀しみもすべて包み込んで、
それを愛しいと思うという境地に辿り着いた人だからこそ、
自らの死についてまるで何かを楽しみに待つような、
これほど明るく華やかな歌が詠めるのだ、と思います。
そして、自らの肉体が滅びた後も、桜が咲き、月が輝く限り、
自分が感じた桜や月への愛情は、そのままそこにあるのだ、
という想いが伝わってきます。
桜や月の美しさが、西行のいた時代から変わらず私たちの心を打つように、
西行の想いのこもったことばも、今の私たちの心に響くのではないでしょうか。
既成概念から自由であったという点でも、西行という人の思想には、
時代を超えた普遍性があると思います。
一読しただけではとても理解しきれるような思想ではないのですが、
私はそのエッセンスを
「森羅万象すべてに仏(神でも何でもいいのですが)の慈悲は行き渡っており、
だからこそこの世のすべては美しい」
というように理解し、深く共感しました。
さて。これだけでも随分長い感想文になってしまいました。
最後に、西行という人は、自らの読んだ歌のとおり、
桜の花咲く旧暦如月の満月の日、73歳で亡くなられたそうです。
歌に詠んだ「願い」がそのとおり叶えられたのは、
西行があれほど愛した桜や月が、
最後に西行に対して示した愛情のような気がしてなりません。