はや、かなり遠い昔となってしまった学生時代を振り返るとき、「なぜもっと本を読んでおかなかったのだろう」という後悔がちらりとよぎります。
本が嫌いだったことは一度もないし冊数で言えば当時もそれなりに読んでいたはずですが、以前にも書いたように「古典」と言われるような本をまったく読んできませんでした。当時は「これは、読んでおかないと」という意識が非常に希薄で、泡沫的読書(こんな言葉ありませんけど)に終始していたというか、読んでいて「わー面白い」と没頭できる本ばかりを探していました。
過去を変えられるわけではないし、個人的には非常に充実した学生時代を送ったと思っているのですが、やはり、もったいなかったなあ、と思うのです。あの、学生が本を読むことに費やせる圧倒的な時間の長さが。
じっくり腰を据えて読まないといけない本というものが、この世の中にはたくさんあります。特に圧倒的な知性と知識に裏付けられた骨太な書物を、その面では著者よりはるかに劣る私のような者が読もうと思うときは、いわば本に教えを請うわけですから、それなりの時間と覚悟と態度が必要になります。巨大な水槽からスプーンで水をすくい出すようなものですから、焦ってやっても水をこぼすばかりです。
通勤の合間に読む古典からは、やはり、「通勤の合間」分だけの智慧しか汲み取ることはできないのだなあ、と痛感します。
それでも、私は通勤電車の中で本を読みます。図書館で借りた本を、返却期限を気にしながら。社会人となった今はそうするしかないのだし、それでこぼれてしまう部分は私のスプーンが小さすぎる以上ある程度あきらめるしかない部分です。
でも、「あー、もう少し時間があればもっと読み込めるのに!」というのも、身の程知らずの錯覚なんでしょうね。たとえ今の数倍の時間をかけて読んだところで、結果は同じなのかもしれません。所詮、自分の器以上のものを受け止められるわけもなし。
ホイジンガの『中世の秋』を読みました。通勤電車の中で、この鈍い頭でも受け止められるものはなるべくすくい取ろうと、夢中で読みました。すごく面白かったけど、もちろん私ごときの小さなスプーンですくいきれる本ではありませんでした。
今の日本でこういう本を読むことは現実逃避だろうか、という罪悪感もうっすらと感じます。でも、言い訳をするようですが、この「今の日本」を生きていくのに、自分にはあまりにも「芯」がない、と、最近痛感するのです。遅きに失した感もありますが、少なくとも気付いた以上はなんとかして芯を埋めていきたいと思うのです。
自分より優れた存在に打ちのめされることなしに、芯なんて固まりません。だから、打ちのめされるような圧倒的な知性に触れるひとつの手段が、自分にとってはこの手の本なんだろうな、と、今はそんな風に思っています。
というわけで、これからブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』を読みます(ルネサンス文化に興味があると言いながら、この古典中の古典を未だに読んでいないという…)。
いざ!ブルクハルト先生に徹底的にKOされるぞ!!と張り切って、図書館で新訳版をいそいそと借りてきたはいいんですが、いやはやこれが分厚いんですよ重いんですよ。どう考えても通勤電車の中で読むことを想定してません(当たり前だ)。早くもこのボリューム感に打ちのめされている私です。仕方ない、腕の筋肉も一緒に鍛えるか…。